薄情な人の原因とは
感謝を述べるべき場の空気に気づかない
薄情な人は時おり感謝の念を伝えないときがあります。
相手に感謝すべきときにもかかわらず、です。
その原因をひも解いていくと、ただ単に、幼少のころから「こういうときはお礼を言わなくちゃいけない」という観念がいまひとつ育っておらず、そのまま大人になってしまったことが理由のひとつとして挙げられます。
それと同時に、本人もまた、他人からお礼を言われる機会が少ない幼少期を過ごしていたのと思います。
このように、感謝すべきときに感謝の言葉を述べないとき、幼少期に受けた教育の影響が大きくあることがうかがえます。
一方で、中には「こんなことしてもらって、本当にありがたいなあ」と〝心の中〟では考えている人もいます。
そのような人は、感謝を言葉に表すことが下手であるだけとも言えます。
ただし、感謝の言葉を述べないという癖・考え方は、成人後でも日ごろから意識していれば矯正することは可能です。
もしも周囲にそうした感謝の言葉を言わない人がいるならば、たとえ反感を買おうとも指摘してあげましょう。
そして自分自身が上記の理由に当てはまるとき、他人の行動・言動を意識し、何かをしてもらったらすかさず「ありがとう」と言うよう心がけましょう。
最初は難しく思われるかもしれませんが、一度慣れてしまえば癖が付きます。
他人の話には耳を貸さず、自分自身の話は優先的に聞いてもらえて当然と思っている
他人から「この人、薄情だなあ」と思われるとき、それは自分自身が自分自身の話ばかりしている可能性があります。
同時に相手の話はさっぱり聞いていないことも併発していると考えられます。
たとえば小さいころ、両親に自分自身の話(その日の出来事・面白い話)を聞かせると、両親から喜ばれた経験は大多数の人が思い当たると思います。
そのとき「自分自身の話はこんなに喜んでもらえるんだ!」という固定観念が脳に染みつき、学生~成人後も進んで自分自身の話を他人に振る舞う習慣が身に付いてしまったことが大きな理由です。
もちろん相手を喜ばせる話し方は歓迎されます。
しかし、あまりにも相手の(自分自身の)話ばかり披露していると、聞き手は辟易してしまうことがあります。
そんなときこそ「この人、薄情的だなあ」と思われてしまうのです。
どうして薄情に思われてしまうか、それは、相手が話につけいる隙がないからです。
会話とは本来、二人以上の人間がそれぞれの話を持ち寄って繰り広げられるものです。
自分自身の話ばかり聞かせる人は、そうした〝舞台〟を独占してしまっているのです。
ひとりじめはよくない、とよく言われますが、まさにそれです。
会話という舞台は複数人で分かち合うべきものなのです。
困っている人を無視してしまう
薄情な人というものは、時として他人に投げやりな態度をとることがあります。
もしも誰かが目の前で困っていて、救いの手を求めているとき、薄情な人は知らんぷりをして立ち去ってしまいます。
これでは薄情と言われても仕方ありません。
では、無視してしまう理由は何か。
それは心のどこかで「自分自身じゃなくても、他に通りがかった人が助けることだろう」と、困っている人を放任してしまう気持ちを抱いているからです。
世界中に何十億、日本でも1億以上の人間がいる社会において、困っていることに気づかれない人はめったにいません。
そう、「必ず誰かが困っている人を助ける」という責任転嫁こそ、薄情な人が他人に投げやりな態度をとる理由のひとつです。
たとえ困っている人が自分自身の友人であろうとも「自分自身の他にも助けてくれる友達がいるだろう」、家族であっても「親戚がいるだろう」、同僚でも「上司がいるだろう」と、〝必ずいてくれる自分自身ではない誰か〟に救いの手をゆだねてしまうのです。
困っている人はどう思うと思いますか。
「この人は私が目の前で困ってても助けてくれなかった。この人は薄情な人だ」という印象を抱くことは間違いありません。
そこから信頼関係を築くことは困難と言えると思います。
「薄情な人だ」と思われないためにも、救いの手を差し伸べこそできずとも、せめて「大丈夫?」と声くらいはかけてあげましょう。
薄情者の特徴
損か得かで付き合う人を判断する
損得勘定で物事を判断する傾向が強いのが、薄情な人の特徴の一つです。
人は誰でもなるべく損をしないように行動をしようとするものですが、それだけでは済まない場面も当然出てきますし、少なからず利益にならないことをしなければならないものです。
ですが、薄情な人はそうした行動を露骨に嫌がる傾向にあります。
得をすると判断した物事や人に対してはいい関係を保てるように努力を惜しみませんが、自分自身には何のメリットにもならないと判断したことに関しては全く正反対の態度で関わらないようにしますし、不必要だと捉えたものには冷たい態度を取るのです。
昨日までは友好的だったのに今日突然明らかに避けられるようになったなど、損得勘定で考えて自分自身にはいらないと思ったものは人に対してはスッパリと関係を断ち切ってしまい、その切り替えの素早さにも驚かれることが多々見られます。
逆に、これまで格下に見ていて相手にもしなかった人が出世するなどしたとき、自身の利益になると考えればこれまでの取っていた態度などコロっと忘れて友好的に接してくることもあるのです。
その相手を好きかどうかではなく、自分自身にとって使用可能なかできないかで関わる物事を決めます。
基本的に他人には興味がない
困っている人を見たら手を貸してあげたり、手助けを頼まれたら持ちつ持たれつだとお手伝いをしてあげる、そうした場面は珍しくありませんが、薄情な人は基本的に他人の置かれている状況には興味がないので、こうしたことに遭遇しても自分自身には関係ないとばかりにスルーしてしまえます。
わざわざ自分自身が手を煩わせて面倒なことに関わらなくても他の人が助けてあげるだろう、だったらわざわざ自分自身が行動をする必要はないだろうと結論付けて、余計な労力を使わないようにするのです。
見て見ぬ振りが得意で、良心が咎めることもないので悪びれることもありません。
他者がどうなろうと関係ありませんし、自分自身さえよければいいので、誰かが困っている状態を見ても何も感じないのです。
ただ、冷たい人だと思われると自身の評判を落としかねませんから、大丈夫かと声をかけたり気遣う素振りは見せます。
しかし、それだけでどうにかしようとは考えていません。
大丈夫かと声を掛ければ大抵の人は遠慮して大丈夫と答えますし、それで義理を果たしたとばかりにやり取りを終えてしまいます。
そうしたことが積み重なっていくと、実際にはちっとも優しくない人物だということが伝わってくるものです。
言葉に重みがなく信頼をされていない
薄情な人は口がうまいタイプが多いのですが、調子のいいことばかり言って実際の行動が伴っていないことが特徴になります。
いい人に思われるようにそれらしい言葉を口にしたり、理想的な提案をして状況をよくするアドバイスをしてくれますが、具体的に何をするかといえば行動は一切しません。
また、こうしようああしようと約束をしても、都合が悪くなると勝手になかったことにしてしまいます。
言葉に心が通っていないので、発したことにまったく重みがないのです。
情が厚いタイプであれば、言葉に責任を持って行動をしようとしますし、期待を裏切らないように努力しようと心がけるものです。
しかし、薄情な人は気軽に提案したり行動を示唆するようなことを言いますが、特に深い意味のあるものではないため自分自身の言ったことをすぐに忘れたり、強い思いを持っていないので本気にすると相手にした人が空回りをしてしまいます。
付き合いが浅いと何となく頼りになりそうな印象を持ちやすいのですが、付き合いが深くなるごとに本質が見えてきて、信用できないことばかり口にする態度にどんどん信頼を失っていきます。
自然と遠巻きにされていることが多いのです。
自己中心的である
薄情者の特徴として、自己中心的であることが挙げられます。
自分自身の利益を最優先するので、他の人が困っていても利益にならないと思えば手を貸すことはしないというわけです。
例をあげると仕事において、困っている時に同僚が手を貸してくれたとします。
その結果問題を解決することができて、失敗せずに済んで良かったと思うわけです。
けれども、その同僚が困っている時には自分自身は手を貸そうとはしません。
これは、自分自身を助けてくれた時には特に頼んでもいないという考えもあってのことかもしれません。
あるいは自分自身の仕事が立て込んでいるので、手を貸すような余裕が無いのかもしれません。
いずれにしても、わざわざ手助けをするような理由が思い当たらないと考えることで何もしないというわけです。
一応、手助けをしないことには自分自身なりの理由があることになります。
人が困っていることは認識していますし、手を貸して上げれば力になれることも分かっています。
けれども、わざわざそのような労力を使う理由が見当たらないというわけです。
これが人から見たら、薄情者と見られる理由となります。
自分自身の力で生きていると自負している
薄情者と見られる人は、人に対して厳しいものです。
困っているとしても、あえて手助けしようとはしないタイプの人もいます。
これは、自分自身が特に忙しいわけでもなく、手を貸そうと思えば貸すことが可能な状態であっても、放置するということです。
このようなタイプの人は、全てを自分自身の力で乗り越えてきたという自負があるのが特徴です。
それなりの苦労をしてきたことで、何でも自分自身の力で解決することが可能なと考えるわけです。
なのでに、他の人が困っているのを見ると、それを努力が足りないからだと見るわけです。
これまでも人の力を借りてきたために、そのような困難に直面すると自分自身では何もできないのだと非難に近い感情を持つわけです。
なのでに決して手助けしようなどとは思わないわけです。
あるいは手を貸すということは、その人のためにならないとも考えます。
ちょっとしたことで人の力を借りているようでは、自分自身の頭で考えて行動できなくなると思うわけです。
常に周囲には、手を貸してくれるような人がいるとは限りません。
となれば、問題が起きた時には自分自身の力で乗り越えなければならないと考えるわけです。
恩義を感じない
人は過去の出来事を記憶していますし、人の恩義というものを覚えているものです。
そして貸し借りに関する経験も積んでいます。
つまり借りたものは返すのが当たり前という習慣が備わっているのが一般的と言えます。
これは人から受けた恩に関しても同様です。
何か手助けしてくれたのであれば、それは借りであると判断します。
そしてその借りは返さなければならないと思うので、逆に手を貸すことが可能なタイミングを探すようになります。
けれども、そのような恩義というものを感じない人がいます。
物理的な貸し借りは理解可能なけれども、そのような目に見えないものに関しては貸し借りという認識ができないわけです。
なのでに力を貸してくれた人が困っていても、以前に受けた恩義というものを覚えているわけではないので手を貸そうという考えが浮かばないのです。
これは本人としては決して悪気はないのですが、周囲から見ると薄情者と見えるわけです。
また、世の中で生きていくということは、誰かの力を借りなければならないという意識もないのが特徴です。
つまり人の手助けを受けているという認識がないので、自分自身が誰かの手助けになろうという発想も生まれないというわけです。